今日は、2021年9月11日ですね。 あの日から、20年がたちました。 記憶とは面白いもので、たった1年前のことがひどく昔のことのように思えたり、数十年も前にあったことが、まるで昨日起こったかのように鮮明に思い出されたりします。
2001年9月11日。 まるで自分が登場人物の一人となった映画を観ているかのように、その日の出来事の記憶は鮮やかです。
薄暗い夜明け前、路面電車の運転士は「ニューヨークで飛行機事故があったらしい」と言った。
当時、まんてんはカリフォルニア州のサンフランシスコに住んでいて、坂や起伏の多いその街のてっぺんに建っているホテルに勤務していました。サンフランシスコ内では2番目に古い歴史があり、最上階にあるラウンジからは美しいサンフランシスコの夜景が見渡せるホテルで、多くのセレブや要人御用達の観光スポットの1つでした。
そのホテルのフロントで、“ゲストリレーション”という肩書きで働いていたのですが、フロントデスクの業務に加えて、VIPをおもてなしする。。。というか、まあ要はお客様の苦情を一手に引き受け、問題を解決するという仕事をしておりました。
その日は朝6時から始まるシフトでした。当時まんてんは超夜型で(のちに概日リズム睡眠障害持ちと分かったのですが)、ほとんど寝ずに出勤の準備をしながら、「今日のこの朝一の苦しいシフトが終われば、明日からはバケーションだ! 早くあがれるから、帰ったら荷造りしないと!」と床に置いて広げたままの、空っぽのスーツケースを見てニヤつきました。 翌日の12日に、サンフランシスコ国際空港からブエノス・アイレスに向けて1週間の旅が始まるはずでした。
暗い夜明け前の、人もまばらな通りから路面電車に飛び乗り、ホテルのある坂の頂上を目指してガタガタと登る電車に揺られながら、寝落ちしていた時です。そばに座っている乗客に、興奮気味に話しかける運転士の声で目が覚めました。
「今さっき、ニューヨークでビルに飛行機が突っ込んだらしいぞ! 飛行機事故だよ!」
乗客たちは「はあ〜っ?! 操縦士に何があったんだ?」とざわつきました。
飛行機が突っ込んだ? 眠気でぼんやりとした目で腕時計を見ると、5時50分頃を針がさしています。あと2、3分もすればホテルに到着です。「いくらなんでも、ビルに突っ込むって、そんな飛行機事故いままで聞いたことないな」と思いながらホテルに着き、従業員専用口から入ってロッカーで制服に着替え、1階のロビーに上がっていきました。
そこで目にしたのは、あまりにもシュールな光景でした。
パニックに陥る現場、フロントデスクに詰め寄る宿泊客。
天井の中央に大きなシャンデリヤが輝く、ロビーの白大理石調の床の上を、ホテルの警備員が大画面のテレビを荷台に乗せて転がしながら設置しています。フロントのマネージャーや、セールスやハウスキーピングの他の部門のマネージャーたちでさえも、総出で皆トランシーバーを持って、ただならぬ様相でせわしく足早に歩き回り、晩餐会などに使うボールルームなどのドアを開けて部屋を開放しています。フロントデスクとオフィス、ロビーに設置してあるすべての電話が鳴り響き、ロビーには青ざめた宿泊客たちが集まり、コンシェルジュの同僚は、電話に耳をあてながら、彼の目の前でパニックに陥り早口でまくしたてる客に対応しようとしていました。
何が起こったのだろう?
日常とはかけ離れたその状況を把握しようと、そばを通り過ぎた警備員の同僚を呼び止めようとしましたが、その表情には緊急事態の鬼気迫るものがありました。 急いでフロントオフィスのドアを開けると、前日の夜勤のシフトに入っていた同僚がまだそこにいました。
「一体、何が起こっているの?」 挨拶もせず、そう彼に聞きました。
彼は、無言で、夜勤疲れで充血した目で一瞥したあと、重い表情で「ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだんだ。4機の飛行機が同時に乗っ取られた。テロだよ。」と答えたのです。
信じ難い思いで固まっていると、コンシェルジュに詰め寄っていた女性客の一層大きくなった声で我にかえりました。
「飛行機が無理なら、運転して帰る!!! レンタカーを手配して! すぐにでもニューヨークに帰らなければ! 近くに家族がいるのよ! 早くレンタカーを探して!」
「マダム、今日、この状況で、サンフランシスコからニューヨークに運転するのはおすすめしません。どうか、ホテルに待機してください」
「NO! 帰らなければ! 頼むからレンタカーを探してちょうだい、、、」
半泣きで懇願する女性客にたいして、穏やかに、しかし断固として対応するコンシェルジュの同僚をみて「助けなければ!」と自分の職務を思い出し、その後は、駒のように動きながら客の対応に当たりました。 もちろん、サンフランシスコ発着のすべての飛行機はストップ、空港も閉鎖していますから、今日チェックアウトするはずだった客のほぼ全員が足止めをくらっています。どれぐらいの間、この状況が続くのかはわからず、すべての客人が安全に宿泊・待機できる部屋を確保しなければなりません。
無我夢中で働いていると、どこからか「テロにハイジャックされた次の一機が、サンフランシスコの金門橋をめがけて飛んでいるらしい」とデマが流れました。 実際、ハイジャックされた4機のすべてが、東海岸からサンフランシスコとロサンジェルスに向けて出発した飛行機だったのです。
さらなるパニックが客人を襲いました。フロントデスクのマネージャーから「VIPラウンジにいるお客に対応してくれないか」と言われ、上階のラウンジに行くとそこにテレビがあり、ワールドトレードセンターの惨状を映し出しています。 燃え盛る高層ビルの窓から身を乗り出して飛び降りる人々。信じられない光景でした。
先にお客の対応をしていたのでしょう、セールス部門の女性のマネージャーが、立ちすくんでテレビの画面をみつめながら「オーマイガッド。。。」と言ったきり無言で涙を流し始めました。 そのテレビの横にあるソファに1組のカップルが座っており、対応しなければならない客だとわかりました。
ノルウェーから来たというそのご夫婦は、少しアクセントのある英語で「ノルウェーの家族に電話しているのだが、何度試してもまったく繋がらない!」と苛立ちと不安を隠せない様子で言います。どのお客も、同じ状況にいました。当時は、今のようにワールドワイドで世界の津々浦々にネットが繋がっている時代でもなかったし、テレビを見れば目を覆いたくなるような場面ばかりが映ります。
とにかく、落ち着いてもらうしかない。 幸いにもVIPラウンジにはドリンクや焼き菓子などのアメニティが常備されており、それらをトレイに乗せて夫婦のもとに持ち運び、「どんなに不安なお気持ちであるか理解できます、もう少し状況が明確になるまで待って欲しい」と嘆願し、やや感情的になっている夫婦の話をひたすら聞くことに徹しました。というか、それしかできることがなかったのです。「大丈夫ですよ!」などという言葉さえ、その時は出てきませんでした。
思い出した夢の光景。そして虚無感に襲われた数ヶ月。
その日、気がつけば食事もろくにせず、午前のシフトが終わったあとも夕刻までとおして働き、呆然としたまま自宅のアパートに戻りました。
一部屋しかないスタジオアパートの床には、その晩荷造りをするはずだった、空のスーツケースがありました。翌日はアメリカン航空でブエノス・アイレスまで飛ぶ予定でしたが、もちろん、フライトはキャンセル。 ずっと行きたかったブエノス・アイレスへの旅はそこで消滅したのですが、あれほど楽しみにしていたわりには、一切の荷造りをしていなかったのです。 まるで荷造りなどする必要がなかったかのように。
まんてんはテレビや電子レンジのバイブレーションが苦手で、アメリカで暮らしていた数十年間、その両方を持っていませんでした。(今は実家にテレビがあって、NHKなんかもみてますけど、見始めるとすぐ飽きてしまいます) テレビがなかったことは今思えば幸いでした。かといって、スマホがあるわけじゃなし、本や雑誌を読む気にもなれないし、誰かと話したいとも思いませんでした。
簡単に夕食をすませると、シャワーを浴びてベッドに疲れた体を横たえ、、、そして「あっ!」と叫んでいました。
夢で見た光景を、まざまざと思い出したのでした。
その日の1週間前、2001年9月4日でしたか、ある夢を見ました。
なにかのストーリー性がある夢ではなく、ひとつの映像でした。 明かりのない薄暗いオフィスのような部屋に、窓を背にして一人の女性がいます。わりと華奢な、30代後半ぐらいの人で、ソバージュ(って今でも言うんですかね)にした、細く柔らかな栗色の髪を外からの光がふちどっています。
グレーのジャケットの下に、丸襟の白いTシャツを着ていて、右手に開いたケータイ電話を持っていました。
線が細くはっきりとした面立ちには、細くて長い眉毛が弧を描いて大きく見開いた目を際立たせていました。その彼女の目から、真っ黒な涙が頬を伝って流れています。メイクのアイライナーとマスカラが涙とともに落ちていたのでした。彼女の目の下も、溶けたマスカラで黒くなっています。
© drawing by Manten
彼女は涙を流しながら、無表情でした。虚ろな視線は宙の一点に注がれ、少し開いた口が言葉を発することはなく、無言で無音です。
そして、彼女の背後にある大きな窓からは、右手から大きく立ち登る真っ黒な煙が見えました。その下方には炎が吹いていて、青く澄んだ空と日中の光が、黒い煙と炎をくっきりとしたコントラストで浮かび上がらせ、彼女のいる部屋の薄暗さを際立たせていました。
それだけの映像を見て、夢から目が覚めました。
ものすごくリアル、かつクリアな夢でした。恐ろしい感じはしなかったのですが、映像の鮮明さ、会ったこともない、見知らぬ女性の大きく見開かれた両目から流れ落ちる黒い涙のインパクトは大きく、何なんだろう? 彼女は誰だろう? なんだかとても奇妙な夢を見た、とその時思ったのです。
そうして、9月11日、疲れ果てて職場から帰宅してベッドに寝転んだ時、突如その夢の光景を思い出し、その日延々とテレビに映し出されていた映像と重なったのでした。
1週間前に見た夢はこのことだったのか? ベッドの上で仰向けになってそう自問しました。はたしてそうなのかはわかりません。 でも、20年間、この夢の映像はずっと鮮明に残ったままです。
その後、政治家や著名人が、このアメリカ史上最悪のテロ事件について見解や意見を延べ、アメリカはアフガニスタン紛争に突入していくことになります。
多くの占星術師も、この9.11の事件があった時間の星の配置を読み、解明を試みました。まんてんは、ある一冊の占星術の本に出会ってから、ずっとこの一種の学問について学んできました。でも、その時、こう思ったんですね。占星術がそんなに優れたものだったのなら、なぜ予知してアラートできなかった? 著名な占星術師が、後になってその豊富な知識をもってどんなに声高に解明したところで、何の役にたつというのか。 数千人におよぶ死者、数百人もの殉死した消防隊員を救えなかった、と。
実際、この9.11を境にして、まんてんはしばらく西洋占星術から離れたのです。ある事象、事件が起こってから、なぜそうなったのかと後出しジャンケンで星の動きを説明する風潮に、虚しさを感じたからです。もちろん、重要な社会の動きを予知した優れた占星術師もいました。しかし、その声はマジョリティの人々に届くことはなく、結局予知されたことが起こってから騒がれることに、なんか無力だよな、っと感じてしまったのですね。
でも、相変わらず星は好きだったのですよ。新月の神秘さ、満月の美しさ。夜空に輝く星たち。 太陽が星座を移行するたび、特に7月の終わりに獅子座に入るときの一段とオクターブが高くなるエネルギーの変わり目の高揚感など、いつも星々と宇宙のエネルギーを感じてきました。
戦争の反対は平和じゃない。創造だ。
9.11はその後の生活にも暗い影を落としました。 まず旅行会社とホテルが運営に大打撃を受けます。まんてんが働いたホテルも、空室状態が続き採算が合わなくなったため、経営陣は大幅な人件費カットに踏み切りました。給料が高い部門のディレクター、部屋の清掃をするハウスキーパー、ルームサービスの同僚たちが次々と切られていきます。まんてんはフロントデスクに残った数人のうちの一人でしたが、ハウスキーパーが足りないため、マネージャーと一緒に部屋の清掃に入ったこともあります。
当時のブッシュ大統領は、アフガニスタンに大量の武器が隠されていることを訴え、報復を誓い、それに反対するデモがアメリカの各地で起こりました。 サンフランシスコなどは、ベトナム戦争の激しかった最中にカリフォルニア大学バークレー校の学生たちが大学を占領して反戦運動を起こしたり、フラワームーブメントなどが起こった地でもありましたから、あらゆる人種の老若男女が結束して週末になるとデモを起こしていました。
アフガニスタン紛争が採決された時のデモは忘れることができません。市役所前の大通りにいると、鼓笛隊の太鼓の音が聞こえてきます。サンフランシスコ中心にある大通りのマーケット・ストリートは、緩やかな起伏のある道なのですが、その坂の上から市役所を目指して歩く千人を越すと思われるデモ隊の姿が見え始めた時は、体が熱くなりました。道いっぱいに広がる群衆が車の交通を堰き止めて、先頭に立った一人の若者が、腰に太鼓をくくりつけて叩くリズムにあわせてシュプレヒコールが上がります。白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、ベトナム戦争の元兵士たち、子供たち、ホームレス、あらゆる人々が反戦を訴えて歩き続けました。
まんてんは、ちょうど市の政府機関のビルの真向かいにあるアパートに住んでいたのですが、斜め向かいにあるガソリンスタンドは大きな掲示板に2週間ごとにいろいろな「格言」を載せていたんですね。それを2階にあるアパートの窓から見るのが好きだったのですが、その時に見たのは “Opposite of war isn’t peace. It is creation. (戦争の反対は平和じゃない。創造だ。)”という言葉でした。 ブロードウェイミュージカル、『レント』に出てくるセリフです。
その年末、ある画家の描いた一枚の絵が話題になっていました。ヴィジョナリー・アートで知られるアレックス・グレイが、1989年に描いた『GAIA(ガイア)』という絵です。 その絵の右側にある描写が、9.11 を示唆しているようだ、というのです。確かに描かれた2棟の高層ビルとその真上を飛ぶ2機の飛行機は、ニューヨークのワールドトレードセンターに突っ込んだそれぞれの飛行機を思い起こさせます。中心に描かれた木の根本の右側に立っている二人の男性が、ブッシュ大統領と兵士のようだ、と騒がれたのでした。
9.11の、12年も前に描かれた絵です。偶然にしては奇妙ですね。
アレックス・グレイは、2001年の翌年でしたか、日付はうろ覚えなんですけれども、サンフランシスコの小さな教会を会場にしてパネルディスカッションを行ったことがあり、まんてんはそれに参加しました。銀色の長髪を後ろに束ねたアレックスは、一種激しさを感じる絵柄からは想像できない、物静かで穏やかな口調のシャーマンのような人でした。
質疑応答で、ある一人の若者が「9.11以来、描けなくなった。アートの意味は何なのか。」とアレックスに問いました。
彼は、9.11のグラウンド・ゼロの周辺で、またあらゆる場所で、いかに人々が犠牲者を偲んでキャンドルを灯し、祈り、泣き、慰め合い、殉死した消防士や故人らのために祭壇を設けて花で満たし、名前を入れた写真を置いて弔ったか、その一連の行動こそはアートなのだ、と答えました。 僕たちは、破壊の中から何かを生み出し、創造し続けていく必要があるのだ、と。
今年で、20年。 アメリカは長きに渡って続いた紛争を終わらせ、9.11事件当時に生まれた若いアメリカ兵士数人が混乱の中で命を落としました。
これから世界はどうなっていくのか。
破壊の中から何かを創造していくのが私たちにできることなのであれば、良き創造を、美しいガイアを夢見続けたい。満天に輝く星空を見上げて、宇宙の中でこの星に共存する今を見届けていく。
2021年の節目に、そう思います。
© Alex Grey “GAIA”, 1989 (アレックス・グレイ『ガイア』)
Top photo: © Sgt. Randall A. Clinton ”9.11メモリアル“光の柱”
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